鎌倉街道は、中部地方から奥羽地方にまたがる東国の武士団と鎌倉幕府を結ぶ道であ
り、平時は御家人
ごけにん
として武士たちが鎌倉を警備する鎌倉番役のための旅路であり、いざ
幕府の非常時には、騎馬で馳せ参じる軍道でもあった。このような性格上、最短距離を
走るため、直線的な道となることが多く、坂道は薬研
やげん
堀状に両側に高土手が築かれ、切
通しの道となるなど、いくつかの特徴があった。これらの古道沿いに残された城跡・古
社寺・板碑や古い塚などが鎌倉時代の歴史を語ってくれる。
<江戸時代の道>
鎌倉幕府が滅亡すると、政治的な意味での東海道の地位は低下したものの、南北朝・
室町・戦国時代を経て地方経済は発達し、諸国領域内の連絡用の道の発達を伴い、江戸
時代に継がれる宿駅の多くがこの時代に誕生している。織田・豊臣時代を経て各宿は一
層繁盛するようになり、徳川家康が征夷大将軍となって江戸に幕府を開設すると、それ
まで各大名の領域内でのみ行われていた道路交通対策は、ようやく江戸を中心として一
元化を見るに至った。
江戸幕府開設の年、慶長11 年(1603 )に架けられた日本橋を、翌年2月に全国の里程
の基と定め、主な道路には一里塚を築いて幕府の直轄下に置かれたのが江戸を中心とす
る五街道であった(図5,図7)。
①東海道=品川より大津までの五十三次。皇居のある京都、また経済の中心地である
大阪とを結ぶということで最重要視された。
②中山道
なかせんどう
=板橋より守山までの六十七次。東山道のうちの中筋の道を古来より中山道
と呼んでおり、途中に山や峠などは通るものの、大河川の渡しなどの難所が少ない
ことから、この道を旅する人は多く、東海道に次ぐ重要路線であった。
③日光道中=千住より鉢石までの二十一次。幕府成立当時は、奥州道中の一部であっ
たが、家康を日光東照宮に葬って以来、日本橋から日光までを日光道中と呼ぶよう
になった。
④奥州道中=日光道中の宇都宮から分かれ、白沢より白河までの十次。古代より設け
られていた白河の関跡に近い白河に譜代大名を配置、奥州に対する要とし、ここま
でを幕府直轄の道とした。
⑤甲州道中=内藤新宿より上諏訪までの四十四次。武田信玄によって開発された甲斐
の金山を重視したこともあるが、江戸城の半蔵門を出て、この甲州道中を真っすぐ
内藤新宿に来ると百人組の鉄砲隊がおり、八王子に着くと武田の遺臣を中心に組織
した千人同心がいて、これを引きいて甲府城に入れば、富士川を通じて駿府との連
絡もつけやすく、また北進して中山道に出ることも可能というわけで、幕府の避難
所としての甲府城へ至るための街道とみるのが一般的である(図7)。
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