一方、こうした鉄道網の拡充に伴って、東京市内を縦貫して東北本線と東海道線を直結
する市内縦貫鉄道の建設が進められた。これは、1889 (明治22 )年に東京市区改正計画
で決定されたもので、南のターミナルである新橋と北のターミナルである上野を高架鉄道
で結び、その中間に中央停車場を設けようとする本格的な都市鉄道の計画であった。この
計画は、ドイツ人建築家エンデ、ベックマンなどによる官庁集中計画などとも絡み、首都
にふさわしい近代都市としての姿を整えるための国家的プロジェクトとして行われた
11)
。
新銭座(新橋付近)と永楽町(東京付近)を結んだため新永間市街線高架橋と呼ばれた
この高架鉄道の工事は、1900 (明治33 )年に開始され、1909 (明治42 )年に浜松町-烏
森(現・新橋)間、翌年烏森-有楽町間が完成、1914 (大正3)年に浜松町-東京間が全
通した。高架橋の構造は、騒音による都市環境と耐震性を考慮して図3
12)
に示すような連
続式の煉瓦アーチ高架橋を主体とし、道路と交差する部分は有道床式の鉄桁を用いた。本
格的な高架鉄道の建設は初めてのことであったため、モデルとなったベルリンの高架鉄道
を担当した技師・バルツァーをドイツから招聘し、その指導を仰いだ。こうして完成した
のが現在の東京-浜松町間の煉瓦アーチ高架橋で、建設後1世紀を経ようとする今なお、
当時の姿のまま現役である。そして、中央停車場として建設された東京駅は、建築家で東
京帝大教授の辰野金吾に設計が委嘱され、鉄骨煉瓦造3階建てのわが国最大の煉瓦建築と
して完成した。その壮麗なファサードは皇居を正面に見据えてまさに「帝都の玄関」にふ
さわしい偉容を誇り、近代国家に生まれ変わった日本の象徴となったのである
13)14)
。
2-5 関東大震災と郊外電車の発達
鉄道国有化によって幹線を構成していたほとんどの私設鉄道が国に買収されたものの、
近距離の都市間輸送や限られた地域内の鉄道輸送については、国有鉄道を補完するため
にも民間資本による鉄道の整備がなお必要であるという認識から、1910 (明治43 )年に
軽便鉄道法が公布され、従来の私設鉄道法よりもゆるやかな基準によって鉄道事業に参
入できる制度が整備された。こうした規制緩和政策によって、大正から昭和初期にかけ
て第二次私鉄ブームがまきおこり、東京近郊にもいくつかの私鉄が新たに登場した。こ
の時期に設立された鉄道としては、1914 (大正3)年に開業した東上鉄道(現・東武鉄
道東上線)池袋-下板橋間、1915 (大正4)年に開業した武蔵野鉄道(現・西武鉄道池
袋線)池袋-飯能間などがあった。これらの鉄道は当初、蒸気鉄道として開業したが、
ほどなく電化されて近代的な都市鉄道へと生まれ変わった。
1923 (大正12 )年に首都圏を襲った関東大震災は鉄道にも甚大な被害を与えたが、同
年11 月に発足した帝都復興院(翌年復興局に改称)は後藤新平総裁(元・鉄道院総裁、東
京市長)の意向もあって鉄道省からの出向者によって固められ、震災復興橋梁をはじめ、
東京の復興計画に鉄道の土木技術者が大きく寄与した。土木部長には太田圓三(鉄道省工
務局工事課長から出向したが志なかばで過労により自害し、帝都復興の尊い人柱と称され
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