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2-2 東京湾の中の東京湊(東京港)
江戸時代の東京湊(現在の東京港)は、大都市「江戸」を控え古くからの埋立て、木
材、行徳塩などの物流方面において、東京湾沿岸部の中心的な存在であったといえる。
そこで、東京湾の中でも東京港の変遷に着目し、江戸時代から明治、大正、昭和およ
び平成にかけての埋立てや、お台場といった軍事建造物について紹介する。
(1)江戸時代
徳川家康入城当時の海岸線は、現在の新橋、霞ヶ関、日比谷、田町の近辺を走ってい
た。日本橋・京橋・有楽町一帯は半島状の低湿地帯で、江戸前島あるいは外島と呼ばれ
ていた。日比谷から大手門にかけては、浅い入り江が江戸城の足元近くまで入り込んで
おり、この日比谷の沿岸には千代田、宝田、祝田などの漁村的村々が散在していた。
家康入城直後の大規模な埋立ては、1592年より始まる日比谷入り江と1603年3月に
着手された豊島(外島)洲崎である。特に後者の埋立ては、諸大名の「御手伝普請(軍
役奉公)」として実施され、千石夫として人夫を差し出すシステムで造成された。この
全国より集められた千石夫によって、神田山の台地を切り崩し、その土砂をもって現在
の日本橋、京橋、新橋付近、いわゆる江戸の下町一帯(豊島洲崎)が埋立てられた。
一方、江東方面の埋立ては、1596年頃から小名木川以南(主に海辺新田)、西は墨田
川沿岸から東は猿江あたりまで、その後隅田川沿いの猟師町(今の佐賀町、永代1、2丁目、
清澄町付近)と続いた。1624年頃からは、永代島の富岡八幡宮の宮地、富岡町、門前
仲町辺りが埋立てられ、さらに八右衛門新田(現在の扇橋1、2丁目付近)、越中島(石
置場)などの埋立ても順次行われていった。また、港南方面の埋立ては、将軍の鷹狩場
である甲府濱屋敷(浜離宮)、大久保邸地(芝離宮)が主なものである。
図6 家康入城当時の江戸
4)
(「幻の江戸百年」:鈴木 理生、から引用)
1636年頃の江戸 1590年頃の江戸(現在の駅を加筆)