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宿禰神社に日本相撲協会の幹部、審判部の幹
部や関係者が出席して、出雲大社教の神官に
よって神事が執り行われる。この興行相撲が
組織化されたのは、江戸時代の始め頃(17世
紀)と言われている。当初は浪人集団との結
びつきなどの理由から幕府によって江戸にお
ける辻相撲禁止令が出された。その後、寺社
奉行の管轄下において、「職業としての相撲
団体の結成」と、「年寄による管理体制の確立」を条件として、相撲の興行が許可された。
現在も相撲番付の中央に見られる 「蒙御免」 の文字、奉行所の 「御許し」 を 「蒙った」
公式の相撲という意味で、江戸時代の名残とされる。
現在、大相撲といえば両国の街を連想する方も多いと思われるが、その歴史は明暦3
年(1657)までさかのぼる。この年、当時の江戸の大半を焼失するに至った大火災が
発生する。世に言う「明暦の大火」である。十万を越すと言われる大火の死者を弔うため、
両国に回向院が建立された。その際の建立修繕費用は 「勧進相撲」 により賄われたとさ
れている。以降、両国は回向院への参拝と勧進相撲により多くの人を集め、相撲の街と
して確固たる地位を築くと共に江戸随一の豪華な盛り場となっていく。
<国技館の歴史>
今から100年前の明治42年(1909)6月、両国の回向院境内に国技館が開館した。当時、
東洋一とも言われた大規模な建物は大変な評判となった。100年の歴史を経る間に場所
は両国、蔵前、再び両国と変遷こそしたものの、いずれの国技館も大相撲の舞台として
数多くの名勝負を見守ってきたのである。
◎旧両国国技館(初代)
明治42年(1909)6月、両国の回向院境
内に建てられた日本初のドーム型屋根をも
つ大相撲常設館、これが最初の両国国技館
である。それまで大相撲は屋外で興行され、
晴天の10日間興行であったが、天候に左右
され、雨の続く年は1ヵ月以上も延々と延
期された。旧両国国技館は、ヨーロッパ風
の美しい外観で東京の名所にもなったが、
大正6年に失火で全焼。大正9年(1920)に再建、大正12年(1923)には関東大震
災で再び炎上。東京大空襲による被災。再三再建されて占領軍による接収。「国技館」
の名も剥奪され、メモリアルホールと呼ばれたこともある。昭和57年に解体された。
写真20 番付表『蒙御免』の文字
平成21年7月現在の番付
写真21 旧両国国技館(明治42年)
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