- 24 -
4.荒川の治水
荒川は、江戸時代初期の付替え工事(利根川の東遷、荒川の西遷)と、明治から昭和
初期の荒川放水路の建設という2つの大きな事業により今の形が作られました。また、
荒川放水路の建設と同じ頃、荒川上流部の治水効果を高める目的として、日本では荒川
でしか見られない、通常の堤防に対し直角方向に築かれた横堤、現代でいう調節池が建
設されました。そして、近年では、大都市を中心に超過洪水の未然防止を目的として、
高規格堤防の整備が進められています。
【荒川の西遷】
河川が人の手によって“流れ”そのものを変えられた時代です。それを可能にしたのが
徳川政権の誕生と技術の進歩でした。家康の命を受けた伊奈氏は、後に「利根川の東遷、
荒川の西遷」と呼ばれる、利根川と荒川の瀬替えを寛永六年(1629)に開始しました。
利根川水系と荒川水系を切り離すこの大規模な河川改修事業により、荒川は熊谷市久下
で締め切られ、堤防を築くとともに新川を開削し、荒川の本流を当時入間川の支川であっ
た和田吉野川の流路と合わせ、隅田川を経て東京湾に注ぐ流路に変えたのです(図24参照)。
これにより埼玉県東部の新田開発が進み、荒川を利用した舟運では、集まる物資によ
り江戸は世界に誇る100万都市に成長します。その一方で、新たな水を受け入れること
になった和田吉野川・市野川の周辺では水害が増え、堤防や水塚などが造られました。
久下以東は
元荒川を河道
付け替え。
和田吉野川
に接続
付替え以前の河道
は“元荒川”
付け替え部分
寛永6年(1629)
利根川は河道
付け替え以前
現在の隅田川が
荒川下流だった。
江戸川
今から約370年前の江戸時代に、熊谷市久下付近で新しい河
道を開削し、和田吉野川と合わせ、現在のように入間川を合
流して東京湾に注ぎ込むようになった河口部の流れは、現在
の隅田川筋です。
荒川は東京湾に流れ込んでいた利根川の支流で、現在の元荒川筋
を流れていました。
図24 荒川流路の変遷図
23)
一部加筆
変遷前 変遷後