- 18 - 4. 駅周辺の歴史と史跡 4-1 駅周辺の歴史 1)高輪の地名の由来 高輪ゲートウェイ駅の高輪は、駅の西側から南西側にかけての地区にあたります。高 輪の名前の由来は、諸説がありますが代表的なものとしては、2つあります。まず、戦 国時代の軍記物語の中に高縄原として書かれていることに由来し、高縄が転じて高輪と なったという説です。また、吾妻鏡の中に登場する1189年の奥州合戦の際に、鎌倉か ら御供した人物の一人として挙がっている高鼻和太郎に因んで高輪の地名がついたと する説もあります。 なお、高縄とは、高縄手の略称であるとされ、高台にある一本道(繩手道)がその語 源と言われています。この一本道とは、現在の二本榎通りにあたり、かつては、この道 が奥州道として、主要な街道として使用されていました。平安時代には、古代東海道と して使われており、中世では鎌倉街道として活用されていた道です。つまり、高縄手は、 この地域を代表する道の1つであり、象徴的な存在と言え、それが地名として使われた と考えるのが自然かと思われます。 なお、高輪の名前は、江戸時代に定着したようで、1644年(正保元年)から作成が 始まった正保郷帳では、高輪の地名が記載されています。 2)縄文時代から平安時代 高輪ゲートウェイ駅周辺の人の居住は、伊皿子貝塚の遺跡が示すように、縄文時代か らありました。その後も、平安時代の竪穴式住居の遺跡から、ずっと人の居住があった と考えられています。 3)江戸時代 江戸時代に入ると、高輪ゲートウェイ駅周辺の三田地区から高輪地区にかけては、江 戸幕府の都市政策によって、寺院が相次いで創建され、大きな寺町を形成しました。江 戸切絵図の芝高輪辺絵図(図15)を見ますと、高輪から三田にかけて、多くの寺院が あるのが分かります。 このような寺町が形成された背景には、地形的な要因があります。明治以降の埋め立 てが始まる前、この周辺は、高台に海が迫っていました。これは、南側から敵が攻めて きたとき、北側にある江戸を守るに都合の良い地形となります。つまり、江戸の町を地 形的に防衛しやすいのです。そして、江戸幕府は、ここを防衛の要として寺町を作った というわけです。有事の際、江戸幕府は、高台にある多くの寺院に兵を潜ませておくつ もりだった、と言われています。